この夏の最後に

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某月某日
 家族は私を残して、私の実家に帰省......。うれしいやら哀しいやら。ひたすら働いた8月だった(まだ10日ばかり残っているけど)。一日を通して、通常→疲労→空腹→不満という変化を通して、その次に覚醒が訪れる。なんというか、研ぎすまされた感覚になり、一気にスパークして仕事を片付ける。外に出たときの終わった感、開放感がたまらない。

某月某日
 いつの間にか、若い人と働くような年代になった。自分が若いときに上司に言われた苦言的なことと、まったく同じ発言を若い人にしているときがある。心の中では「自分もそうだったから、そんなこと言う資格ないけど。ごめんね」と思っている。
 わたしがよく怒られたのが「独自判断」だ。よかれと思って判断して行動して、それがよからぬ結果を招く。よくあるパターンだ。そんなとき「判断するのはかまわない。ただ、それが合っているか、間違っているか、誰かに確認するべきだ」と怒られるわけだ。当人にとってみれば、そんなこと面倒だし、ややこしい。しかし今になってみれば、軽い気持ちで聞けばいいのに、と思う。だけど、だいたいのことは、後になってわかるものだ。
 だけど、ひとつだけ思うのは、とにかく「狭い世界の中での正しいルール」に過ぎない。この世界においては上司の意見は正しいかもしれないが、恐らく別の世界であれば、それは間違っているし、通用しないことのほうが多いと思う。だから、とにかく自分がいるのは小さな世界、ということだ。
 そもそも上司、部下とか言っている時点で、息苦しいし、現代的じゃないね。

某月某日
 お盆。東京から人がいなくなる。東京の半分の人が帰省したのではないか、というほど静かだ。そんな中、街を歩くと「いろいろ思うことあるけど、悪くないな」という気持ちになる。

某月某日
 実家隣のおじさんIさんが亡くなったとの訃報。10年来闘病生活を続けていた。威勢のいいおじさんで、よく家に来ては大きな話をして、ガハハと笑っていたのを思い出す。とにかくパワフルで、元気のよい人だったのに。亡くなったのがお盆だったというのが、象徴的というか不思議な気持ちがする。

某月某日
 夏の終わり、例によってあっという間だった。

2018年夏

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 2018年夏。すべてを溶かすほどの暑さ。目の前の風景が歪んでしまうかのような、異様な暑さ。Wカップも見たけど、いつも暑い夜中の試合で、夢のようだった。
 際立つ蝉の声。浮き出て流れ落ちる汗。あっという間にすべてが乾く。そこに染み込む水の潤い。蛇口をひねって聞こえる水の音。そこからこぼれ落ちる水。一つひとつが貴重な瞬間になる。

 仕事では「わかってほしい」、でも「わかり合えないのが現実」という狭間で過ごした春の終わりから夏の始まりだった。自分の発する言葉の問題なのか、伝えようとする意思が少ないのか、あるいは相手の言葉を汲み取る力が足りないのか、噛み合なさ加減だけが際立っていった。
 どう向き合うか。状況批判・分析、できることをやるのは当たり前。できるかできないことに対して、できるように取り組んでいくことが、仕事ではないのか。結果としてできなかったとしても。

5月周辺

某月某日
 今日はGW手前ということもあり、全体的にのんびりモードというか、みんなうきうきしていた。こうした流れに自分も乗っかり、よい気持ちで一日を過ごすことができた。以前にも書いたと思うが、金曜日の夕方というのは、かけがえのないひとときだ。


某月某日
 昨今の不祥事について考えていた。改ざん、セクハラ、不祥事など、「ありえないことが」が続いており、結果はもはや「なんでもあり」という状態。だがしかし、逆に考えてみるとこれまでも「なんでもありだった」んだと思う。
つまり「結果=表面上に現れていること」はあくまで表面上に過ぎない。いろいろな思惑を経て、帳尻が合わさったものであり、その帳尻はときには一般的に正しくないと考えられているやり方で合わせた場合もあるということだ。きれいごとの積み重ねや主張だけで、世の中を動かすことはできない。成り立っていない。じつはその水面下で暗躍している人や思いがある。よくないことと分かっていても、そうせざるを得ない理由がある。暗い部分も含めなければ、明るい世界を作ることはだきないのだと思う。
「正論」は結果に対してしか振りかざすことができず、じゃあお前はいったい何をしてるんだい? といつも思う。批判する対象がないければ、お前は存在することすらできない。あれこれ言う前に、とりあえずやろうよ、というのが自分の変わらないスタンスだ。
ちょっと話がズレてしまったが、「正論を振りかざすだけ」では、根本は解決しないということだ。


某月某日
 正月以来の帰省。家族は私を置いて先乗りして安曇野を満喫した模様。私は金曜の夜にあずさに飛び乗り、土曜の夜に東京に帰ってくるという弾丸ツアーだった。短い間だったが満喫することができた。温泉に行けなかったのが心残りか。安曇野が最も美しく輝くのがこの季節だと思う。


某月某日
 数十年ぶり以来、歯医者に通っている。3月下旬、疲労が重なり歯がめちゃくちゃ痛くなり、とにくかくもう最悪だった。食べられない、集中できない、何もできないということで、治療を決意。駅前の歯医者が朝は8時30分、夜は20時までという素晴らしい営業時間なので、仕事の合間を縫って通院を続けていた。これまで親知らずを1本抜き、虫歯を3本治して先日ようやく終了。これから細かいメンテナンスを行うということだ。実を申せば歯医者に行ったのは小学3年以来、ひどくなる前に診てもらうべきだったという、いつもながらの後悔パターン。
 で、最近ようやく痛みも収まりつつあり、平穏な日々が訪れようとしている。こうしたことがあって、健康であることの大切さが身にしみる日々だ。

男であれ女であれ

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 寒かったり、暖かかったり、微妙な気候が続いている。だが、総じて1年を通していちばん気持ちよい季節だと思う。朝の身がキリリとと引き締まる澄んだ空気、そして眩しい濁りのない陽射し。高校のとき英語の先生が「こんな素敵な表現があるんです」と、おもむろに黒板に「a brilliantly sunny morning」と板書したことを思い出す。文字通り「輝く眩しい朝」だ。

 一方職場では、毎年この時期から「空調の温度設定」という、人間社会の縮図とも言うべき、軽いストレスが発生する。
 体感には「暑い」「寒い」「ちょうどよい」があり、これらをコントロールするために、エアコンの「冷房」「暖房」「温度」を選択するのだが、同じフロアに複数人、男と女がいれば、全員が一致して「心地よい状態」を作るのは不可能だ。誰かの主張が通り、誰かが我慢することになる。
 往々にして思うのは、温度設定を積極的にする人は、それが当たり前と思っている節があり、我慢している人がいることにそれほどの負い目というか、それすら気がついていない人が多い。10人中、寒いと感じている1人に、暑いと思っている9人が合わせる必要があるのか。
 温度であれ何であれ、まずは他者がどう感じるか、どう思うか、自分に合わせてもらうのではなく、人に合わせようという姿勢がなければ、他人が気持ちよく同居することはできない。冬は暖房、夏は冷房が基本で、暑ければ服を脱ぎ、寒ければ服を着る。まずは自助努力で解決、それから全体を頼るべきだ。
「空調の温度は勝手に変えないでください」と宣言すればよいのかもしれないが、そこまで管理はしたくない。仕事以外のことでイチイチネチネチ言うのが、本当に大嫌いなのだ。だが、しかし、先日「暖房」になっていたときは、さすがにうんざりした。それでも何も言うまいと、無言でスイッチをOFFにした。他人同士が一緒になるのは努力というか、ちょっとした気づかい、思いやりが欠かせない。

揚げ足取りと批判されたとしても

 平日の朝刊は眺める程度、土日は熟読。夕刊は手頃な文量なので、平日でも寝る間際にざっと目を通している。同業種の端くれとして気になるのが『訂正 お詫び』コーナーだ。概ね誤字脱字、固有名詞などのマイルドな誤りで、これくらいまあいいんじゃねぇの的な内容がほとんどだ。新聞社にとってそこはプライド、一言一句間違えがあれば文字にしてお詫び、訂正、ということだろう。
 が、しかし先日の夕刊『訂正 お詫び』は驚愕の内容だった。

『某日「漁から戻った□□□□丸の船頭○○○さん」とありますが、○○○さんはこの日、漁に出ていませんでした。確認が不十分でした。』

「えっ?なにこれ。こんなことあっていいの?」急いで押し入れにしまってある前日の夕刊を引っ張り出して内容を確認した。
 それは以下のような内容だった。

①T湾でシロエビの漁が2日に解禁された
②午前4時半頃漁船5隻が出港して、底引き網漁を行った
③シロエビが水揚げされると、市場に競り人の威勢の良い声が響いた
④漁から戻った□□□□丸の船頭○○○さんは「春が来た。全国の人に味わってもらいたい。豊漁を期待する」と語った
⑤漁は夏が最盛期で11月まで続く。

 『訂正 お詫び』は④に対する事実誤認だった。こんな恥ずかしい間違いは、いったいどうして起こったのだろう?
 正論かませば「裏取ってねえだろ!」と批判したくなるところだが、第一に事件、事故ではない。いわゆる囲み記事、季節を伝えるちょっとしたコラムであり、綿密な取材は必要ない。事実を報告して、ちょっと色づけして終わり。普通の記者なら、なんてことのない仕事だと思う。しかし、事実は小説より奇なり。漁の解禁日、しかも実際に漁に出た□□□□丸の船頭が、実は漁に出ていないなんて、いったい誰が思うだろうか? 

 思い込みおよび勝手な判断が原因のミスだ(自分もこの手のミスは大得意で、これまでなんども痛い目を見ている)。さらに言えば、文章を卒なく書く、ということに慣れてしまっていたのだと思う。結論ありき、事実は後付け。自分が想定したシナリオ通りに記事を進めたのだろう。
④はなくても記事は成立する。しかし起承転結、記事のスパイスとして、ましてや取材をしたのであれば「現場の声」はどうしても入れたいところだ。そして最大のポイントは「春が来た。全国の人に味わってもらいたい。豊漁を期待する」という発言は、「漁に行って今年の漁獲を把握、帰ってきた状態で語る」ことで、最も印象的な効果を発揮する。家でゴロゴロしている人にもっとらしいことを語られても、臨場感も説得力もない。文脈上、あるいは文章構築のテクニックから派生した一文だ。あるいは記者がそうあってほしい、そうあるべきという想いから、勝手に船頭を船に乗せてしまったわけである。つまり事実は関係なく、よりよい記事を作るために付け加えた一文。いわゆる修飾語で、これがなくても意味は通る。
 
 それにしても、なぜこんな間違いが発覚したのだろうか? 読む側からしてみれば、実は漁に行ってないじゃないか、などと疑う必要のない内容だ。関係者が告発するにしても、いったいなんの義務感に駆られての行動なのか? 不可解すぎて、思わず長文を書いてしまった次第だ。自戒を込めて「やりっぱなしは超危険。必ず確認!」を改めて痛感した夕刊だった。

4月になれば

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 4月になって、どこにこんなに人がいたのだろう、と思うほど、道も駅も人で溢れかえっている。新入生、新社会人と思われる、真新しい服に身を包み、どこか不安げだけど、溌剌したなんともいえない表情の人たちがいっせいに世の中に誕生する、新しい季節の始まりだ。
 既存の世の中でも、転職、退職、人事異動の知らせがわんさか届いた。なかには明日から大阪です、なんていう挨拶もあった。誰にとっても環境が大きく変化する4月。しかし、自分はいつも通り、とくに報告すべきことはない。しばらくというより、長い間、味わっていない、4月の気持ちを感じてみたいものだ。

あをによし奈良の都は咲く花の

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 先日ふと「そうだ、奈良へ行こう」と思い立ち、いきなり奈良へ行ってきました。
 京都は現在進行形、歴史遺産はありつつも経済の中にあり、現在進行形を感じます。つまり都会です。一方の奈良は言葉は悪いですが寂れています。しかしその夢の跡こそがいにしえを感じるわけで、そこが奈良の魅力ではないでしょうか。

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 しかし、約10年ぶりくらいに訪れた奈良公園周辺のテーマパーク化ぶりに、驚きというか多少の失望がありました。まずJR奈良から奈良公園までの道はスッキリ観光お土産道路に。そして東大寺周辺は東大寺ミュージアムなる博物館を中心に、カフェ、今風のお土産屋などが立ち並び、さながら京都清水寺のようでした。南大門の近くの駐車場には大型バスが次々と乗り付け、韓国人・中国人が大挙して押し寄せていて、立派な観光スポットになっていたのです。

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 それにしてもスマホの自撮棒はなんとかならないものでしょうか? 完全に自分が主役。場所は脇役。なんのために旅をしているのかわかりません。そんなに自分中心にしたければ、背景合成したほうがはやいしきれいでしょ、というくらい滑稽な姿でしかありません。

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 東大寺に行くのであれば、ぜひ奈良公園入り口から歩いてほしい。歩いて大仏に辿り着くことに趣があるというか、そんなに簡単に大仏と対面してはおもしろくありません。
 猿沢池を右に眺め、左の石段を上がって興福寺五重塔へと歩く。そこから国立博物館を抜けて、ようやく南大門に辿り着く。20分程度のおすすめコースです。さらにおすすめなのが、東大寺の後は二月堂へ登り、眼下に奈良市内を眺める。そして東大寺の裏側を歩き、正倉院へ。ここは裏参道と言われており、土塀に囲まれた道が続いてとても古風です。さすがに今でも人が少なく、ほっとしました。

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 現場ではお金を稼ぐ必要があることはわかります。復元された遺物、建物も何百年も建てば風合いを増すことでしょう。まったくもっての旅人の意見ですが、寂れゆくまま、朽ちたままの自然の姿こそ奈良らしいのです。

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 そんな意味では、奈良から和歌山方面、つまり明日香へと続く各土地が素朴です。人間が作り、取り残された風景が寂しければ寂しいほど、そんな中に春爛漫を迎え、咲き乱れるさまざまな草木、そして花々の美しさ、力強さがいっそう際立っていました。

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東京地下鉄通勤物語

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 現在光が丘在住で、通勤は光が丘駅、地下鉄大江戸線を利用して都心まで通っている。
 調べてみると、一日平均乗降人員は約3万人。朝の通勤時間になると駅周辺は改札に向かう行列が発生し、急ぎ足でそれこそ排水溝に吸い込まれる落ち葉のごとく、次々と人々が改札を潜っていく。昨年一度、半休で午後出社のときがあったのだが、ヒトッコヒトリおらず不気味なほどに静まり返っていた──住民のすべてが通勤のために移動してしまったと思えるほどに。

 大江戸線の特徴は2つあり、まずは深いこと。だいたいどの駅も、改札から長いエスカレーターを2つほど降りてホームに辿りつく。だいたい降りている途中に電車が来て行ってしまう、ということがほとんどで、えらい時間がかかるのだ。そして次は狭いこと。通常の車両の2/3ほどの広さで、座席と座席に2人が立てば肩が触れ合ってしまうほどの狭さだ。

 朝の時間帯、大江戸線は5分間隔で走っており、光が丘は大江戸線の始発だ。ホームは人で埋め尽くされ、やっかいなのは座りたいがために、前の駅あたりからわざわざやって来る人がいるので、さらに列が長くなる。いちおう張り紙と「やめてくれ」的なアナウンスはなされているが、まあいいよね的な状態になっている。こうして地元組と前の駅組が加わり、扉が開くと座席分の人数だけが列車に入っていく、ベルトコンベア式の移動が始まる。なんとも整然、律儀としている。で、ここからが滑稽というか悲しい時間帯。我れ先と椅子取りゲームが始まり、座れなかった人はなんともバツが悪そうな顔して再び列の最後尾に戻る。そして座れた人はいっせいにスマホを見始めるという人生の縮図とも言うべき風景だ。百歩譲ってスマホはまあよいとして、がっかりするのはその内容だ。リーマンが朝から一心不乱にゲームをやっているを見ると、本当にうんざりする。

 で、そんな中の一人のリーマンとして出勤するわけだが、自分の場合はこの列には加わらない。列を無視していつも発車前の列車に駆け込んでいる。1時間以上かかるなら執念で席を確保するかもしれないが、20分程度なので。練馬で大量に人が補充され、よくニュースで見るこれぞ「通勤ラッシュ」という感じになり、混雑はマックスになる。入り口付近に乗ったときなどは、駅に着くたびに降りる人のために一度外に出なければならない。これを繰り返していると「いったい俺はこんなところで何をやっているんだ。嗚呼リーマン」などと憂鬱な気分になる。そして奥に乗ったときは「すいません降ります」と挨拶をして、ギュギューの中を分け入って出口まで辿りつく。これが月曜日から金曜日までの、典型的なリーマンの通勤スタイルだ。

 もちろん肩が触れた触れない、どけどかない、音が漏れている漏れてない、スマホやめろやめないなど、低レベルのトラブル発生の確率は高い。とにかく距離は近くても基本は「東京砂漠」。他人同士が異様な近距離で同居し、殺伐とした雰囲気が充満しているので、ちょっとしたことでも即ギレに繋がってしまうのだ。リーマンが一方的に学生に切れる場合が多い。端から見ていると、学生の非常識よりもリーマンという存在の哀しさが際立つ瞬間だ。
 多いのか少ないのないのかよくわからないが、これまで2回、目の前で倒れた体調不良の人を抱え上げたことがある。自分を含めて倒れ込まない限り、周囲は無関心だ。地獄とはおおげさだと思うが、通勤が過酷なことは間違いない。

 そして最後に。始発の光が丘は同時に終点でもある。六本木、渋谷、新宿などで飲み明かしたホスト、あるいは自由人がベンチで死んだように寝ているときがある。自分を含め整然と並ぶ通勤前の人たちとの対比。どちらが自分らしいかと考えれば、もちろん自由人たちであるが、どちらが人間らしいかと言えば、それはリーマンのほうではないかと思う。

弥生

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 何度も書いてきたと思うが「月〜金・土日」という果てしないループをどう脱出するのか、それが最近のテーマだ。脱出とか書いている時点で終わっているかもしれないが、変わりのない日常を重ねている間に、日常が終わってしまうから。

今さらながら『君の名は。』

 お正月に『君の名は。』がテレビでやっていました。やはり感動・号泣。評判通りの作品でした。今さらながらですが、感想および分析です。

 まずとにかく美しい映像。背景・風景の美しさが新海監督の大きな魅力です。おそらく「描く」というよりも、実際に取材した画像をデジタル処理しているのだと思いますが、「現実世界を忠実に再現というよりも、美しく再現」しているのではないでしょうか。色や形をそのまま加工するのではなく、美しい部分のみをよりデフォルメした風景──人間がその風景に持つイメージ、こうあってほしいという風景を映像化しているという感じです。それゆえ、より美しいと感じるのだと思います。

 デジタルならでは、デジタルだからこそできる手法ではないでしょうか。実際の新宿は雑然で無機質、だけどその中で生きていかねばならぬ的なイメージの映像化は見事です。

 で、肝心の物語は人と人が出会うことの奇跡、必然、大切さ、切なさが描かれています。田舎の女の子が東京に住む男の子と入れ替わりを繰り返し、近づいていく、これで大筋は間違いありません。しかし、男女入れ替わりの視点、その間に反対側の物語も進み、かつ時系列通りに描かれていないので「えっ?これってどういうこと!?」の戸惑いの連続です。 少々タネ明かしになってしまいますが、図にするとこんな感じですかね?

 ジャンル分けするならばこれはタイムトラベルものです。構造は『バックトゥザフューチャー2』や『JIN-仁-』と同じで「過去を変えれば未来が変わる」ということです。つまり、もともとの現実Aが過去を変えたことによって現実Bになる。物語のキーになるのが、その起点はいったどこなのか? そして未来が変わった後の現実Bにおいて、未来が変わる前の現実Aの出来事、および現実Aの記憶はどうなるの?という矛盾を抱えながら生きている2人、この螺旋状の展開あるいは絡まり方、および記憶の切なさが『君の名は。』の最大の魅力と言えるでしょう。

 少々脱線しますが、タイムトラベルものの傑作がスティーブンキングの『11/22/63』。こちらは何度過去に戻っても同年同時刻から始まり、しかも一度過去を変えて現実に戻り、また過去に戻ると一度目に変えた過去および未来はリセットされる(今の現実に戻る)という設定です。ケネディ暗殺阻止に挑む物語で、現実Aと過去を変えて未来が変わる、現実Bが泣けて泣けてしょうがいないという名作です。

 以上、俺はわかってるぜ!的に書いていますが、上記は『君の名は。』小説版を読んでわかったことです。小説版は映画で省略というか描かれていなかった部分が補足されており、攻略本的な感じで「なるほどね」という感じでした。

 そんなわけで、青春っていいなって思いました。10代、20代の青春時代の人にぴったりの映画です。

 同時に自分にとっては過ぎ去った日々であり、少々感傷的になってしまいましたが、それ以上に何かを作り出すことの素晴らしさ、自分も何かを生み出していきたい、と強く思うことができました。

 最後に、宮崎監督の後継者は深海監督なのか?について。後継者というよりは、次世代のアニメを背負う人物なのだと思います。そもそも2人は決定的に違う。宮崎監督は王道の果て、深海監督は妄想の果てに辿り着いた作品という印象で、現代において前者は説教臭さく感じてしまい、後者は共感を呼ぶのだと思います。

 

追伸

1年以上間があいてしまい申し訳ありません。今年はまめに更新していきたいと思います。